griffin avenue’s blog

Boys be ambitious! Girls be unbalance? (^-^) 鳴かぬなら踊って見せよ。ホトトギス!

内政干渉も甚だしいアムネスティ・インターナショナル。。。

国際人権団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)が28日に公表した2007年の世界の人権状況に関する報告書で、日本について「9人が処刑された。死刑判決の確定は23事件で、1962年以来最も多かった」と指摘した。 アムネスティ・インターナショナル日本の寺中誠事務局長は同日、東京都内で記者会見し、「日本では殺人事件は激減しているが、死刑判決と死刑執行は増えている」と批判。来年5月に始まる裁判員制度について「多数決で死刑を科すことのできる制度であり、人権上極めて問題だ」と話した。
時事通信 JIJI PRESS 2008/05/28-16:58】

「ふざけんな!」と言いたい。とんでもない内政干渉である。大きなお世話も甚だしく、自分らの論理を身勝手に押し付けて来るのは?・・傲慢極まりなく、迷惑千万な話である。。

日本の場合、死刑を求刑される受刑者らは、大概の場合、既に複数の人数を殺しているか?・・或いは、仮に単独でも、常軌を逸した凄惨なる殺し方で、社会に与えた影響が著しい場合と相場が決まっている。

しかしながら、死刑か?終身刑か?の議論になると?・・死刑回避論者は、殺人者の今後の更生議論ばかりを先行させ、殺された者の「無念さ」や「憤り」という「声なき声」に耳を背け、人が人を裁く限界論に持って行こうとする傾向がある。

ボクシングで言うところの?クリンチに近いものであって、こうした態度で、ことの争点をぼかそうとする行為は、死者に対する「冒涜行為」として、激しい憤りを禁じえない。そもそも、複数の者の人生を、自己中心的な観点から一方的に奪っておいて、今更、更生もクソもなかろうに?・・というのが私の基本的な考え方にある。

しかしながら、昔から「盗人にも三分の理」といわれるように、例え凶悪な殺人者であっても?そこに至る「已むに已まれぬ」理由や経過を、公判を通して、世間に知らしめる意義は大いにあると思う。だが例えどの様な理由が有ったにせよ?・・究極の復讐を成し遂げた後は、自らを律し、潔く刑に服するというのが?そもそも「筋」であり、「人の道」ではなかろうか。

ちなみに、私が日頃から尊敬してやまない「赤穂浪士」の皆さん方。彼らの行った行為は、当時も今も決して許されものではない。しかし、そこに至る過程や心情は、三百年の時を経てもなお、良く理解できるものである。その為、当時から「仇討ち」を成し遂げた藩士らに対する「助命嘆願」の声が多かったという。しかし当時の幕府は、様々な意見を聞いた上で、彼らに毅然と「切腹」を命じた。(一説には荻生徂徠の進言とも言われるが・・) 
一見、冷たく見える裁定だが、あくまでも「法は法である」という当時の幕府の考え方や判断は、今日的にみても、十分納得の行く優れた判断であったと思う。ちなみに赤穂藩の元家老の大石内蔵助は、切腹を前にして、辞世の句を次のように詠んでいる。

「あら楽や 思いは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲無し」

私としては、如何なる理由があったにせよ?複数人の人生を、無理やり奪った以上は、彼らのように生き恥を晒すことなく、潔く死するのが「道理」だと考える。
ましてや?何の落ち度もない者を、通り魔的に無慈悲にも殺した場合などは、例え一人の殺しであっても?本来は「死刑」にするのが?・・誰の目にも分かり易い求刑と言えまいか?・・しかし日本の場合を考えると?厳しくても「無期懲役」が関の山という現状がある。
仮に百歩譲ったとして、単独殺人は兎も角も、複数人を殺害した場合などは、私としては、特段の事情がない限り、原則「死刑」が相当と考えている。さもなくば?殺されたものは?・・単に殺され損として浮かばれることはない。

意思を持ってする殺人は、事故とは全く違うものである。故意に人を殺してもなお、死刑にならないとしたら?悪の連鎖を誰が止めるというのだろうか?・・死刑があっても難しいかもしれないのに?・・しかも死者の無念は、司法が晴らさずして誰が晴らすというのか?・・その意味でも?究極的な抑止力としての「死刑」は已む得ないものである。。。