griffin avenue’s blog

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甲府「甲斐善光寺」、飯田「元善光寺」の御開帳、、、、

善光寺という名のお寺は全国に100前後あるようで、それら中心にあるのが「信濃善光寺」ということになります。。
ところが考えて見れば、善光寺如来さまほど時代に翻弄された仏さまもないところでありまして、武田信玄、信長、秀吉などなど、時の武将らの身勝手?により、意にそぐわぬ形で各地を転々とするを余儀なくされて来ました。。

今回私たちは信濃善光寺の御開帳を目指して工程を組んで来たところでありますが、「善光寺如来がそうした事情で滞在したことのある他の善光寺も一緒にお参りすべき」という寺側の広報もあり、道すがら寄れそうな二ヶ寺をピックアップし、そちらもお参りすることにしました。。

その一つが山梨県甲府市にある、、「甲斐善光寺」、、です。。
こちらはその昔、武田晴信(信玄)が北信濃侵攻のおり、戦乱に乗じて信濃善光寺が消失してしまわないようにとの理由から、独断で?甲斐に疎開させたのがそもそもの始まりとされます。。
ときくと一見、「いい話系」、、みたいに聞こえますが、相手方の了承なしに持ってくるのは?本来は略○ですよね。あまり褒められたこととは言えません。。
ではありましても、善光寺さまご自身にとっては正しく「被害者そのもの」でありますし、誠にお気の毒と申す他はありません。私たちは甲斐善光寺さまも丁重にお参りしてまいりました。。
こちらに祀る御本尊さまも信濃に有るものと同じ一光三尊式の阿弥陀如来さまでして、武田氏滅亡の後、甲斐から更に次の地へ持ち去られていった御本尊さまに摸して作ったのが今日の仏像と思われます。。
実は信濃善光寺では長らくの間「御開帳」もせずにいた時期があったようでして、信者の間から今も本物が甲斐にあるのでは?と噂になった事があるらしく、それを払しょくする意味で、信濃善光寺にて御開帳が復活したともいわれてます。ネットの拾い読みですので与太の可能性もありますが、、、、

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寺には、当時、武田が信濃から持ち帰ったとされる宝物が未だ多数残されており、今回の御開帳に併せて一般公開されてましたので一緒に見て来ました。。

そして、その次に訪れたのが南信州の飯田にある「元善光寺」でした。。
これまたネットの拾い読みですが、こちらは善光寺という名が付くそもそもの切っ掛けとなった由緒正しきお寺で、当地の本多(本田)善光という人が今の大阪の難波辺りで善光寺の御本尊となる如来さまを発見し飯田に持ち帰ったのがそもそもの発端になります、当時は「坐光寺」という名の寺にお祀りしていたようでしたが、ところがどういう理由に依るものなのか、理不尽にも時の皇極天皇が勅命を出して御本尊を信濃へと遷すことを命じたのです。当然そこには、、「なんで?」、、と憤る本多氏や飯田市民らの姿があったハズでして、それをなだめすかす為だったのか?移し先の信濃の寺名を本多氏の名を取り「善光寺」としたとみられます。私の想像です。。
そこでようやく納得したのか納得せざるを得なかったのか、兎も角も、飯田にある「坐光寺」の方も、それに合わて「善光寺」へと改名しています。。
ということで、その後は信濃の「善光寺」に対し、飯田の方は本家本元の意地を示す「元善光寺」を名乗っているようです。。

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エライと思ったのは飯田の人々でして、御本尊が信濃に移った後も信仰は衰えることなく、在りし日の善光寺如来を模した御本尊を新たに作るなどして一層の信仰を深めて行ったようです。。
まぁ当時は側近への「賂い」で勅命が乱発される時代でもありましたから、おそらくは何らかの意図を持った者が目的を果たす為に「断れぬ条件」としての勅命を利用したのでありましょうねぇ、これらは私の想像です。。(v_v)