griffin avenue’s blog

Boys be ambitious! Girls be unbalance? (^-^) 鳴かぬなら踊って見せよ。ホトトギス!

善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。。。。。

中国を訪れている民主党の小沢前副代表は、28日夜、唐家せん国務委員と会談し、唐家せん国務委員は「小泉総理大臣の総理就任以来、日中関係はギクシャクしている」と述べ、小泉総理大臣の靖国神社参拝を厳しく批判しました。(-中略-)これに対して小沢前副代表は「いわゆる東京裁判戦勝国側の判断であり、そのまま受け入れられないが、私は靖国神社に戦争を指導した責任者を祭るべきではないと思っている。戦死した人だけを祭る靖国神社の元の姿に戻すべきだ」と述べました。(10/29 NHK オンラインnews 00:14)  

小沢さんの云う、靖国神社を「戦死した人を祭る」という本来の姿に戻し、戦争を指導した責任者を祭るべきではない?とする意見や、自公民の超党派議員による戦没者に対する「新たな追悼施設の建設」検討の動きなど、「靖国神社」参拝に対しては様々な意見がある。。。。。

それにしても、この議論に入る時、もっとも考慮すべき「主体」を、何処に置くべきなのだろうか? 私的には、それは『亡くなられた方々の“魂”』自身ではないのか?という風に考えている。一般的に、人が死に「魂」に帰った時、もはやそこには「善人も、悪人も無い」と云われている。だから死者に「鞭打つ」所業はいけないという「言葉」がある所以だ。重大犯罪をした「死刑囚」と云えども、ひとたび死刑が執行された後は?論理的にも「罪びと」では無くなっている。。。。。

その意味で考えれば、小沢さんの云う靖国神社の「生い立ち論」は兎も角も。一端、お祭した「魂」を、現世に生きる者の都合で「分詞する」などという「考え」には、私的には、とても付いて行けそうにない。むしろ「正気の沙汰」とは思えぬ所業と考える。(お祭する前に議論するというのなら分かるが)。。。。。

そもそも日本国内に於ける「宗教行為」に対し、他国から「あれやこれや」と指図を受ける筋合いは無い。さりとて「危害」を被られた中国や韓国の方々の「気持ち」も配慮せねばならないであろう。であるならば、参拝に際しては、あくまでも個人的なスタンスを保ちつつ、「国事行為」的色彩が出ぬ様に、最大限の「配慮」は必要だと考える。その上で、国民もマスコミも、有るがままを、淡々と静かに見つめてゆく姿勢で良いのではないか。その意味で、今回とられた小泉さんの「参拝スタイル」は、適切な良いもので有りました。改めて支持いたします。。。。。